【2つの青森】 津軽と南部の400年にわたる確執とは ? (その1)確執の始まり

【2つの青森】 津軽と南部の400年にわたる確執とは?
(その1)確執の始まり

今回は、3回目の投稿ということで、私の好きな分野である「歴史」をテーマにしたいと思います

私が就職後に移住し、16年目になる地元「青森」の歴史にスポットを当てたいと思います。

青森県は、西の「津軽地方」と東の「南部地方」の2つの地域に分かれ、方言や文化などが大きく異なります。

「ねぶた祭り」や「りんごの産地」として全国的に有名なのが「津軽」です。

一方「ほたて」や「うに」をはじめ海産物で有名なのが「南部」です。

皆さんが青森と聞いてイメージされるものは「津軽」が多いのではないでしょうか。

江戸時代、青森県の西側は、弘前に藩庁(城下町)を置いた津軽氏の「津軽藩」に統治されていました。
※津軽藩は、藩庁の場所から「弘前藩」とも呼ばれます。

一方、東側は、現在の岩手県の盛岡に藩庁(城下町)を置いた南部氏の「南部藩」に統治されていました。
※南部藩は、藩庁の場所から「盛岡藩」とも呼ばれます。

ですので、南部地方は、言葉や文化は、津軽地方より隣の岩手県に近いと言えます。

私が住んでいるのは、南部側ですが、南部の地元の人でも津軽弁は分からないといいます。

日本の各地方の方言が作られたのは、江戸時代の大名が統治する藩が由来といわれています。

江戸時代の藩の数は、俗に三百諸侯とも言われますが、実際はそれよりも少し少ない270前後の藩が存在しました。

つまり江戸時代には、270もの小国家が存在し、それぞれで独自の方言と文化を作っていました。

でも藩が分かれていても隣同士の藩であれば人の交流があり言葉や文化にも共通点が出てくるはずです。

しかし「津軽藩」と「南部藩」は、他の地域には見られないほど、文化や言葉の違いがはっきりと分かれました。

この違いは、安土桃山時代に始まる400年にわたる確執により、交流が閉ざされていたことが原因です。

では、400年にわたる確執とはどのようなものでしょうか?

中世の戦国時代、青森県と岩手県の北部は、南部氏の支配下にありました。

そして、その南部氏の家臣(家来)として、津軽地方の統治を任されていたのが津軽氏(大浦氏)です。

戦国の世から天下統一へ向かう安土桃山時代になったころ、主家の南部氏で起きた相続争いに巻き込まれた津軽氏は、南部氏の本家から謀反の疑いをかけられます。

津軽氏は、謀反の疑いに対して申し開きをする道を選ばずに、このピンチを「独立のチャンス」ととらえ、主家である南部氏に反旗を翻し、周辺の敵対勢力を攻めて領土を拡大します。

そして最終的には、天下人となった豊臣秀吉に働かけて本領を安堵してもらい、南部氏から独立を果たしました。

南部氏にしてみれば、今まで家来だった津軽氏が、独立して自分と対等な大名になることなどは、とうてい認められるものではありませんでした。

こうして津軽氏が、強引に「独立」したことにより、津軽氏と南部氏は、対立するようになりました。

ここから、400年にわたる津軽と南部の確執が始まります。

次回は、江戸時代の「津軽と南部」についてお話ししたいと思います。

次回の投稿

【2つの青森】 津軽と南部の400年にわたる確執とは ?(その2)直参と陪臣の厳格な上下関係

 

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